2020/04/01 02:09
「虫愛ずる姫君」とオランダ黄金時代のプロテスタンティズム 昆虫の生態に関する学問の基礎を築いた昆虫学者、マリア・ジビラ・メーリアン(Maria Sibylla Merian, 1647-1717)『ヨーロッパ産鱗翅類‐その変態と食草』(銅版、1679)の一葉。メリアンはフランクフルトの銅版画家の家に生まれ、「黄金時代」のオランダ及び同国植民地スリナムで活動した。Sibyllaは日本語ではシビラと表記されることもある。 幼虫期から脱皮を繰り返し蛹、次いで成虫に変態する昆虫のライフサイクル、及び、多くの植食性昆虫は特定の植物のみを餌とする単食性または狭食性であるというこんにちの常識は当時存在しなかった。昆虫の大まかな身体構造(頭・胸・腹の分節)はアリストテレスにより明らかになっていたが、西欧において鳥・獣・魚・植物などに比べ虫の研究は遅れていた。昆虫は、中世では腐った泥から自然発生した生き物、悪魔の生物と考えられていた。昆虫の研究は17世紀に急速に進んだ。顕微鏡の発明、及び大航海時代に伴う異国の生物の観察がそれに寄与した。 17世紀半ばは「挿絵入り印刷物の出版」という概念が生まれた西欧出版史上重要な時代であり、銅版画職人や印刷工が集結したアムステルダムはその中心だった。この概念は「博物図鑑出版」として具現化される。17世紀後半にイギリスで興りフランスで革命に影響を与えた啓蒙思想の文脈で出版されるモーゼス・ハリスやジョン・グールドらの諸博物図鑑はその後継である。 メーリアンはプロテスタントの一派・ラバディストであり、彼女にとって虫のライフサイクルの研究は魂の救済の象徴というキリスト教的な文脈でもあった。 メリアンの図版の特徴は、一種類の昆虫の卵から成虫までをその昆虫が依存する固有の植物とセットにして一画面で表すところにある。昆虫は普通、産んだ卵の世話をしない。代わりに孵化した幼虫の餌となる植物に産卵する。従って、この図版は蝶一家の生活風景を写すものではなく、一個体の成長段階を一枚に収める人工的な表現方法に拠る。キリストの受胎告知から処刑、復活、昇天などを一画面で表すキリスト教絵画の伝統を継ぐともいえる。